元町6丁目商店街(モトロク)

元町商店街の歴史

古代~江戸時代

元町商店街の起源、神戸市の原点。

紀元前から栄えた土地。
太古の昔から人々が暮らす、恵まれた場所。

元町商店街があるあたり。人々が暮らしてきた歴史をたどると、紀元前700年ごろの「明石原人」にまで遡ります。残念ながらこの「骨」は学会で正式な研究がなされないまま戦災で焼失してしまいましたが、はるか昔から人類がここに住み始めていたことに間違いはありません。
北に山並み、南に海、山海の幸と温暖な気候という恵まれた立地環境…。幾星霜という歳月の中、大地の自然活動や人為的な街づくりなどで古代の地形そのままとは言えないけれど、暮らしに適した土地柄は今も昔も変わりません。

飛鳥時代からの街道筋。
国防の山陽道、大名行列の西国街道。

人が集まる社会には、必ず道があります。道がなければ、人と人がつながる社会は育たないからです。
この地に道が整備されはじめたのは、飛鳥時代のことでした。唐の来襲を恐れた飛鳥政権は九州に大宰府を建設し、難波宮から芦屋、須磨、明石、姫路を経由して大宰府に至る山陽道を整備したのです。いま元町通と呼ばれる道の骨格は、この時代に形づくられたのでした。
江戸時代に入ると、時の中央政権によって道はさらに質の高いものに仕上げられ、さまざまな人や物が行き交うようになっていきます。いつしか、薩摩・長州に代表される西国大名の存在で、この道は「西国街道」と呼ばれるようになりました。その中のわずか1.2キロが、今の元町通。ここが神戸市の原点になろうとは、当時誰が像したでしょうか。

街道に生まれた村。
すべては“3つの村”から始まった。

西国街道の中のわずか1.2キロを中心に、「神戸村」「二つ茶屋村」「走水村」の3つの村が誕生したのは幕末の頃。20,000人の人口をもつ兵庫の蔭で、3つあわせても人わずか2,000人の村落群ではあったけれど、村の人々は新しい時代への芽を育んでいきました。

神戸市の名を導く「神戸村」。

三村のなかで最も東に位置する神戸村。東は生田川から西は二つ茶屋村まで、北は生田宮村から北野村にいたる村落です。神戸村の名称は、江戸時代から明治元年まで使われました。名前の由来は生田神社の草創に遡ります。生田神社には、税の一部を納付する44の封戸がありました。これらの封戸は納め先が神社なので「神戸」と呼ばれていたのだとか。当初は「カンベ」と呼ばれていたものが、時代とともに「カウベ」になり「コウベ」になったと伝えられています。

商いの心が育てた「二つ茶屋村」。

神戸村の西隣りに位置する二つ茶屋村。花隈と城ヶ口にはさまれた中宮村出身の二人がここで茶店を始めたのが、村のはじまりでした。街道筋に茶店ができたことで、四方から人が集まり、やがて村になったのです。村人たちの仕事はさまざまだったけれど、大黒柱になる事業に育ったのは海運業。村の成り立ちも発展も商いが中心というこの村の心意気は、現代の商店街にも受け継がれているのではないでしょうか。

荒ぶる水とともに生きる「走水村」。

二つ茶屋村の西、宇治川と湊川にはさまれたこの村は、雨のたびに水が氾濫するまさに「水が走る」村でした。兵庫史を記す西摂大観にも「隣村二つ茶屋領字御所坂の下、清水の田地水押し強く降雨の時は氾濫道路恰も小川のごとくなり水勢渦を為して流れ落つ」と記されています。水害の多いこの土地を、それでも人々は愛したのでしょう。荒ぶる水とうまく付き合う心得を身につけて、やがて村は他の二村とともに発展していくのです。

神戸元町商店街連合会発行『神戸の良さが元町に ―生誕140年 神戸元町商店街のいま―』より抜粋

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