元町6丁目商店街(モトロク)

元町商店街の歴史

戦争そして戦後復興

試練を乗り越えて、未来へ。

阪神大水害。
「さすが元町」。未曾有の水害に、負けない。

1938年(昭和13年)7月、降り続いた雨は六甲山系を中心に各地の山地大崩壊をもたらし、山津波が神戸の市街地を襲いました。兵庫県百年史にも記される「阪神大水害」です。元町では元町駅の高架が防波堤となり、流れる水の勢いを幾分やわらげたおかげで家屋の崩壊は免れたものの、元町六丁目北側の高架あたりは流失した家具で埋め尽くされる状況に。元町商店街も全域が泥海と化すほど被害は甚大でした。
復旧のために、すぐさま人々が立ち上がりました。神戸商店連盟は被害の少ない商店街から勤労奉仕隊を募り、泥土の除去と清掃奉仕を実施。人々の懸命の作業の甲斐あって、元町商店街はほどなく以前の姿を取り戻します。その様子を神戸新聞は「流石天下の元町」と報じたとか。これは、神戸商店連盟の指揮により、商店会の相互扶助機能を全市的に展開させるはじめての事例になりました。

復興のジュラルミン街。
焼け跡に燦然と輝く、純白のストリート。

1931年(昭和6年)の満州事変から日本は戦争への道を進み、国民生活の切り下げが求められ、商店街への圧力も厳しくなります。1941年(昭和16年)に太平洋戦争がはじまり、1942年(昭和17年)から100回以上も空襲を受けた神戸市は、東京、大阪に次ぐ被害を受けました。元町商店街は焼け野原となって終戦を迎えたのでした。
元町商店街が復興に向けて動き出したのは、1945年(昭和20年)終戦の年の暮れ。中でも元町三丁目は「商店は個人経営でも、街は共同経営」と、散り散りになった店主たちを一堂に集めて会合が開かれました。そこで提案されたのは、各自が思い思いのバラックの店を建てるのではなく、統一感のある商店街づくり。開港とともに神戸に進出してきた竹中工務店が建材として持っている飛行機用のジュラルミンを通りに面して張り巡らせて、ガレキの暗いイメージを一変するプランでした。
当初は反対意見もありましたが、何度も会合を重ねて全員の賛同を得て、1946年(昭和21年)10月、焼け跡に“純白のストリート”が誕生。ジュラルミンで燦然と輝く商店街は、神戸のジュラ街として話題になったそうです。

未来へつながるアーケード。
永遠の「高級・ハイカラ・エレガント」。

百貨店の店頭販売の影響を受けて、それまで店の奥に商品を置いていた元町商店街でも店頭販売が主流になってきました。しかし、店先に商品を陳列すると直射日光で劣化します。その問題を救ったのが、「アーケード」でした。
1953年(昭和28年)、まず六丁目商店街が固定式の片側アーケードを採用。日本で初めての施設として広く喧伝されるほど画期的な設備で、落成式典当日は完成を祝う人たちで埋め尽くされるほどでした。
1955年(昭和30年)には、当時の建設省が商店街整備事業を推進したことをうけて、商店街に全天候型アーケード設置の動きが広まっていきます。当初は反対意見もありましたが、やがて元町商店街全体にアーケードが完成し、その後も改良を重ねながら現在の姿になっていきました。今、商店街全体のアーケードは高さ・明るさともほぼ均等になっていますが、スズラン灯のデザインに1丁目から6丁目までそれぞれの特徴が表れています。
元町らしい「高級・ハイカラ・エレガント」を大切に、これからも、美しく、心地よく、魅力的な商店街づくりは進んでいくことでしょう。

神戸元町商店街連合会発行『神戸の良さが元町に ―生誕140年 神戸元町商店街のいま―』より抜粋

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